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独り言シリーズ目次

独り言シリーズ 「新しいローカル文化」  目次

1.新しいローカル文化

2.ある空想の源

3.新しい条件~スピルバーグ

4.第二の太陽

5.常に在る・不在

6.広島に生きる者の帰属先


(続く…)

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 6

6.「広島に生きる者の帰属先」

「常に在る・不在」という言い回しは、論理的というよりも多分に情緒的なものだろうと思う。この地に生きる者にとって心にわだかまっているもの、解決できないものその総体に対する苛立ちの心情から生まれるのかも知れない。
「この地に生きる者にとっての○○」…もともとこの独白は、「新しいローカル文化」の可能性、つまり今後広島において地域独自の文化の定立が可能かという問いかけから始まったことを思い返そう。
さて、地球を帝国のように制覇する「中央」原理、その文化独裁という状況下にあって、広島に限らず「地域独自の文化」の定立はかなり難しい。自生の文化は今や根絶されたように見える。
「帝国」の原理の話はこの際ひとまず置き、よくあるシンプルな話にシフトしよう。よく「地域性の創造」について問うと、「地域性とは過去を参照しつつも不断に創出されるものである」という答えが返る。つまり「過去という種を掘り起こせばそのうち花が咲く」と。その通りだと思う。ただしその言い回しは、あくまで「過去」があればという話である。それならば広島の「過去」とは何であろう…「参照すべき過去」とは?
なるほど広島には風光明媚な自然に培われた歴史文化と、食を含めた広島ならではの豊かな生活文化の系譜があり、それが今の「ひろしま」の日常の生活を形成している。他の都市ならばこれだけ過去の「種(文化的資源)」があるならば、躊躇なく「花畑」の開墾に取りかかることができるであろう。しかし広島では話はそうは単純に進まない。「ヒロシマ」という大きな壁があるからである。
「他の壮絶な戦争の惨禍と、ヒロシマの惨禍がどう違うのか?」という議論がある。しかしそれでも、「ヒロシマ」は違うと思う。「ヒロシマ」はいわば人類史の特異点であり決定的に違うナニカである。それは広島という一ローカルな問題でなく、人類全体の問題だからである。
逆に言えばこのことが、私たち広島に暮らす者たちにとってやっかいな問題を引き起こす。私たちが暮らす街が、「広島」や「ひろしま」でなく、「ヒロシマ」ということになれば、「私たちの街は‥」という表現で、この街を単純に捉えられないということである。とすれば私たちはどこに帰属するのであろうか?
ここで、「帰属」という問題は、常に外部との関係性において、つまり「他者」に触れる現場において生じるということを認識しておくべきだが、この63年間、私たちが常に回帰する、あるいは外部との関係性において回帰させられる「過去」とは、「あの瞬間」なのである。この「過去」は余りにも強大で広島の他の過去を消し去るかのごとくだ。しかもこの過去は、歴史の「起源」であり「0」点であるはずである。したがって何もない…いわば「真空」だ。そこで私たちが常に回帰する過去は実は「0」ということになり、「0」は「無い」という存在だから、広島には「無いという過去」があるとされる…「常に在る・不在」。ここでもこの言葉がリフレインとして響く。(続く)(石丸良道)

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| 独り言シリーズ(本編) | 13時30分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 5

5.「常に在る・不在」

スピルバーグの映画「太陽の帝国」は、地上に新たな「太陽の帝国」が誕生したこと。そして「ヒロシマ以降」の人間の条件について問いかけている。
以前このことについて、映像作家である私の友人に話したことがある。友人も納得し、最近講演会などで、スピルバーグこそ「ヒロシマ以降」に最も意識的な映画監督であるという説を披露するのだが決まって無視されている。「それスティーブン岡崎と間違っていない?」と言われたりするそうだが、つい最近その友人からメールが入り、インディ・ジョーンズの新作「クリスタル・スカルの王国」を観て、「この説を確信したよ。」と言ってきた。私はまだその映画を観ていないので何とも言えないが、この時期なにか意味深な気もするし、みなさん観てください!

さて生は、永劫への追及であり、停止への拒絶であろう。そして生は“光”に囚われている。生は“光の帝国”に囚われながら、自身の生成を繰り返す。
そして1945年8月6日、あの“突然の朝”、あれ以来、人類は「死(死神)」の太陽と「生」の太陽、二つの“光”に引き裂かれたこの惑星で、8時15分で停った時計のように、夢のように凍った時の風景とともにあの朝を生きている。原爆の閃光で石に焼き付けられた人影のように「常に在る・不在」の朝…「終着の朝」で無数の物語が加速する。 

「常に在る・不在」…何でここでこのようなデスパレート(desperate)な言葉が?
この言葉は、たぶん単純に、普段いつも「ある」のに、実際には「ない」…あるいは「あってはいけない」コトやモノのことを言っている。分かりやすくするために、たとえば写真をイメージしよう。ここに古ぼけた写真がある、50年前の広島の街角で遊んでいる子どもの写真、たとえば私の子どもの時の写真だ。その子どもという存在事実は、写真というモノの中に、永遠に(もっとも写真だから劣化するが)固定されているように見える。でも実際は、その子どもは、「もういない」…その子どもはまさにその夢のように凍った時を生きているのだ。(続く)(石丸良道)

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| 独り言シリーズ(本編) | 11時12分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 4

4.「第二の太陽」

映画「太陽の帝国」の中では、「ヒロシマ・ナガサキ」について一言も触れられておらず、ただ映画のラスト近く描かれた、強烈に炸裂する光のビジョンがゆえに、この映画の隠れテーマが「核の光」あるいは「ヒロシマ以降」であろうと勝手に思ってはいたが、Dream Worksからのこのメッセージにより、はっきりと証明された。
「太陽の帝国」とは、先ず「日出ずる処」としての大日本帝国を指しているのだろう。
日本の中国大陸侵略にまつわるエピソードの中、「収容所」が存在し、この映画の場合、そこに捕らわれるのは、(中国の人々でなく)米・欧州列強の人々である。
そこで「西洋近代」は、その周縁における一変種としての、当時の「大日本帝国」つまり「太陽の帝国」の姿を通して対象化(主人公の少年は、カッコいい「ゼロ戦」に憧れている。)され、そこに自らがもたらした「疎外」を見るという構図である。
アメリカ新大陸発見を契機として、またスペインのコンキスタドールが「インティ(Inti)」と呼ばれるインカの人々の祭る「太陽神」を征服して以来、自我に目覚めた「西洋」は、数百年の後、今度は世界の東のハテ、「日出ずる処」に、己の不吉な姿を重ね見たのだ。それはあの「光」だ。「地を覆う光、もうひとつの太陽」つまり「第二の太陽」である。その瞬間、主人公の少年は、世界を覆うもうひとつの新しい「太陽の帝国」の誕生を知るのである。

それにしても核の炸裂というテーマを、「ヒロシマ・ナガサキ」やアメリカを舞台として描くのでなく、大陸中国に設定するというスピルバーグのアプローチ、その地政学的センスは絶妙と言っていい程である。
近代の諸帝国が作りだした「収奪の旧大陸」としての中国をフレームに、「帝国」が浮き彫りにされ、「近代」があぶり出されるのだ。
中国領土内に存在した列強の疎開のように、映画で描かれる「収容所」は、広大な沃野の中、健康な組織体を蝕むガン細胞のように周囲とは隔絶された世界であり、その中で、捕囚者(米・欧州列強)は、収容所の主(日本)と、ある種共犯意識のもと異常な日常を共有する…「帝国」は何も日本だけではなかったはずだ。
これは、後で触れる「ヒロシマ」を巡る「加害」と「被害」の問題に深く連鎖していく構図であろう。(続く…) 

(石丸良道)

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| 独り言シリーズ(本編) | 17時13分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 3

3.「新しい条件~スピルバーグ」

人類が、今までとは違った別の「条件」のもとで生きなければならない…「それが問題だ。」と呟く。
では何が問題だ?
ここで少し、ここで言う「条件」、あるいは「生存の条件」という言葉について考えてみたい。

「1945年8月6日、8時15分、ヒロシマの惨禍…あの“突然の朝”、人類は、“第二の光”を経験しました。
ヒロシマは、人類が、この惑星で、“太陽”と“核”…その二つの“光”に引き裂かれ、それまでとは違った歴史的条件の中、新しい『人間の条件』のもとで生きなければならないという時代をもたらした。
その意味で、ヒロシマは、人類史・後史のまさに起源であり『グラウンド・ゼロ』といえる。」

突然だが、以上は自分の文章の引用である。
この文章の中の「新しい『人間の条件』のもとで」というフレーズは、これまた以前書いた文章からの引用である。
それは映画監督・スピルバーグにかかわる話だ。
2005年8月、広島市の主催事業、被爆60周年記念事業「市民アートフェスティバル」の一環として、スピルバーグ・「*太陽の帝国」の上映会を行ったことがある。

以下はその時のリリース文章である。

「スピルバーグの少し気になる映画がある…『太陽の帝国』。
この映画は、アジア・太平洋戦争時、中国の収容所を生き抜いた一人のイギリス少年の物語だが、ラストシーン近く、少年の印象的な台詞がある…『僕は新しい言葉を覚えた—ATOM BOMB…』。
少年は、大人になっていくための通過儀礼と併行して、『地を覆う光、もうひとつの太陽』のもと、新しい『人間の条件』を悟るのである。」

またこの上映会のために、スピルバーグの事務所・DreamWorksから、次のようなメッセージが寄せられた。

「映画の中で、主人公の少年が、空に不吉な閃光を見るという場面は、まさにその日(原爆の日)世界が見たことを象徴しているのです。その光の後、すべては今までと変わってしまいました。」(続く…) 

(石丸良道)

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*スピルバーグ「太陽の帝国」 Empire of the Sun
製作・監督:スティーブン・スピルバーグ/原作:J.G.バラード/脚本:トム・ストッパード/撮影:アレン・ダヴュー/音楽:ジョン・ウィリアムス/出演:クリスチャン・ベール、ジョン・マルコビッチ、伊武雅刀他/上演時間152分(16mmフィルム)

sun

●ストーリー:上海で暮らすジムとその両親。ジムは日本軍の零戦のパイロットになり、大空を飛ぶ姿を思い描いていた。戦争が迫り、ジムの一家も上海脱出の準備をしていたが、時すでに遅く、日本軍が上海に侵攻してくる。両親とはぐれたジムは、強制収容所で力強くたくましく生きていく‥。前半の日本軍による上海侵攻のダイナミックな描写、少年とゼロ戦パイロットのみずみずしい交流など、印象的なシーンが多い。SF作家、J・G・バラードの自伝的小説の映画化。

| 独り言シリーズ(本編) | 16時55分 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 2

2.「ある空想の源」

私ごとながら、子どものころ、午後の日差しも陰る縁側で一人空想にひたって独り遊びをしていた。
この性癖は今も続いているらしく、最近ではモーツアルトのオペラ「魔笛」の全スコアをフルート1本でなぞって吹くという「独り魔笛」をして悦に入っている。
前回の「独り言」に引用したドンキホーテではないが、空想が世界大に膨張し、それを現実と思いこむ羽目にならないように日々見張っていなければならない。
これもなかなか骨の折れる努力であるが、ところでドンキホーテのこと、セルバンテスの大著、あれ以来、実際に読み始めた。なかなか面白い。
いつかは原語(スペイン語)で読んでみたいものだ。
こんなことを書けば、未曾有の世界不況が雪崩のように押し寄せるという(と、だれかが言っていた)、不安な昨今、なんと暢気な話よと叱られるだろう。
勝手に始めようとしているこのコーナーにしても、何が文化だ、芸術だ、今さらそんなこと言っている場合かと、世の中の人々のあきれかえった表情が目に浮かぶのである。
確かに、今、世界はヘンである。
何か人類がこれまで経験したことがないことが近々起こりそうな気配がある。
今まで通用していたことが通用しなくなる時代が、「本当に」やってくるかも知れない。
人類が、今までとは違った別の「条件」のもとで生きなければならいということ…
それが問題であり、弁解ではないが、私の空想の源もそこにある。(続く‥)

(石丸良道)

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| 独り言シリーズ(本編) | 16時33分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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独り言シリーズ 「新しいローカル文化」 1

今年もAH!の姉妹イベント、広島インディースの祭典「インディケット」の開催が決まったが、
最近、CDプレスサービスを行っている東京の某企業の方から、東京で広島出身のアコースティック系の若いアーティスト達が寄り集まってライブをしているということを聞いた。
「非常にレベルが高い」のに驚いたそうで、これからも広島のインディーズ情報を知らせて欲しいということだった。AH!やインディケットの経験を経て東京に行った彼らに頑張って欲しいと思う。

それにつけても、AH!は、常にローカル圏の多彩な表現者が集まっては圏内文化のショーケースとなるとともに、人材の発掘や育成に役立っているだろうか?と考える。答えは微妙である。
確かに兆しは見えもするし可能性はある。もっとも、正直そんなに肩肘を張って力んでやっているのでもない、そうあればいいなと思う程度だが、それでも思うのである‥時代はもうローカル文化の時代になっているのではないかと。広島で新しい、堂々とした?ローカル文化が育てばいいなと‥と。

漠然としたイメージだが‥これからの「新しいローカル文化」の確立は、バーチャルなサイバースペース内でのことは置いておいて、リアルなモノや人の交通やコミュニケーションにおける省エネ性など、最適な地域間交流性に根ざした「地産地消型文化圏」の創出にかかっていると。
この文化圏について、私は、広島県、島根県、山口県東部、愛媛県にわたる圏域とイメージしている。
広島市は、この文化圏内の、自然、歴史、産業技術、人材等の資源によって創造される文化を集積し、売り(表現し)、買い(享受する)、中核的な「市(イチ)」の役目を負う。「市(イチ)」‥私は、「市場(マーケット)」と言いたくない。
次に、広島における「新しいローカル文化」は、地域文化と、「ヒロシマ」をめぐるグローバルな視点が融合した文化を誘うだろう‥そう、これからの、21世紀的課題としての「オータナティブ文化」‥その「もう一つのグローバル化」に対応する文化である。
広島市は、その時、世界各国の地域エリアとの、「国-際」的ではなく「民-際」的な連帯・交流の上に成り立つ、「地球文化のショーケース」であり、「地球市(イチ)」の役目を果たすだろう。
このように捉えると、さまざまな文化的企図やアクティビティの可能性が開けるのではないかと。
ドンキホーテ(?ちょっとキザかな!)のように独り夢想するこのごろ。

(AH!運営委員・石丸良道)

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| 独り言シリーズ(本編) | 18時32分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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